2014年 映画ベスト



10.5位『複製された男』

親展の宛先は観客の幻想的解釈の潜在意識。その封筒の「鍵」は難解な投げ掛けに混乱する僕らを嘲笑うかのような、余りにも単純な人間の欲望。ドゥニ・ヴィルヌーヴが散りばめた捻れ構造の仕掛けに気付いた時には既に「支配」されていた。90分にまとめ上げたコメディスリラー。




第10位『ゴーン・ガール』 

二つの視点、現在と過去、観ていた事実が巧妙な手口により観させられていた事に気付いた瞬間、映画はがらりと変容する。物語の本質は「サスペンス悲劇」が「喜劇ドラマ」に変わる後半一時間半。これはスリラー映画を粧った、D・フィンチャー毒に塗れた素数的映画だ。




第9位『アデル、ブルーは熱い色』 

特質すべきは赤の感覚。青の時代を失ったアデルが青の瞬間に溶けていく。アートでも日常でもドキュメントでもあり、それのどれでもないような。エマ、アデル。二人の演技は素晴らしかった。どちらの気持ちも痛いほど分かる。分かった気になっているだけかもしれない。




第8位『ウルフ・オブ・ウォールストリート』

キャスティングの遊び心、繰り返し、編集、アングルの
真骨頂、ペン売りに込められた着地。往年のスコセッシにより発明された映画文法回帰、伝家の宝刀に嫉妬。繁華に隠れた極みの場末感、壮絶にいかれ狂った3時間。レモンは覗き心を強烈に突き刺す蜜の味。




第7位『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』

列車が動いた時、走り出す父の青春。車内で集結した時、振り返る家族の意味。荷台に空気圧縮機が乗った時、噛み締める親子の世代交代。新車が走り出した時、全てに決着が付いた。ラストに繋がるあちらとこちら、向かうべき道筋と映画旅が確かに繋がった。




第6位『物語る私たち』

私を家族と周辺からなる私たちの視点で描き、主人公の私を、セルフドキュメンタリーとして強要しない特別な時間を生きた過程を紡ぎ出し成立した「演出型」ノンフィクション。事実は語り口の数だけ、真実は一つ。否、事実と同じ、或いはそれ以上の記憶と思いの数だけ真実はある。




第5位『ジャージー・ボーイズ』

栄光と挫折、老体が獲得した神業が織り成す極上の娯楽ミュージカル。振り向き様の懐古、四人の瞳に恋してた。同録の意義、演奏場所の意味、意図した仕掛けが歌声と呼応する。冒頭で衝突した車は煙を上げる。示唆するそれは、これから始まる「彼らの映画」の叫びの狼煙。




第4位『インター・ステラー』

H・ジマーの戦慄。数多作品の引用と最高技術、過去と現在を抽出し追求するアナログ宇宙旅を差し置いて、物語は溢れ、零れ落ちる無償の高次元愛一直線。時空の歪みから差し伸べた手は、映画(フィルム)愛へと辿り着く。ノックするのは紛れもなくプランCの人類の未来だ!




第3位『6才のボクが、大人になるまで。』

音楽史、文明史に彩られるボクの人生は、時間が不可逆で操作する事が出来ないとリンクレイターは成長を操り証明した。人生は一瞬だ。いや、一瞬が人生なんだ。一瞬の結晶が一瞬を作り出し秒針は一秒ずつ動き出す。今年唯一の落涙とNO.1エンディング映画。




第2位『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』

コーエン兄弟最高傑作。腐敗、混沌、孤独な音楽を包む60s.NY。それは、デイヴィス=猫。伝説が始まる一日前、フォークの未来を若者に託した殴傷が放つ哀愁。世の静けさのように回り続けるレコードはまるでループする男の生き様。




第1位『ある過去の行方』

脚本を書き、カメラを構え、演出し映画を創る。「演出する」という事の絶対的な付加価値の圧倒的な立証。弁証のアンチテーゼとも言うべき演出力。上辺に色を塗り重ねていくような映画的追求が、嘘のリアルを映し出し、スクリーンと観客の共犯関係を成立させる。これは映画だ。



【再掲】

『ある過去の行方』

いつもは鑑賞中に映画とリンクしながら思いが絡み合うように言葉となって整理していくのだけれど、
今作はすぐに出てこない。『別離』同様、解けていくような脚本と待ち受けているラストシーンの衝撃。映画を観ているのだと忘れるくらいのドキュメント。傑作。

現実に引き戻されるラスト、あれを美しいと呼ぶのだろうか。誰もが共感出来る要素を散りばめつつ、到底届きそうもない情緒的な息苦しさがある。あの生乾きなペンキを雨粒がさらっていくように、何処かに忘れてきた記憶は漂い、生活の中に浮遊しながら交錯した感情が掻き消していく。

脚本が素晴らしい監督として定評があるが、演出力に裏打ちされたものだと思います。
冒頭の空港で、ガラス越しの彼らは意思疎通が取れていない。
ここですでに彼らの関係を明らかにしている。
しかし、ここでは元奥さんは微笑を浮かべます。
そして、毎作特徴的なタイトルイン。
今回は車のワイパーでしたね。
過去という文字を少しずつ、少しずつ消して行きました。
こういう映画なのだ、と。冒頭だけでこれだけ示唆出来る。
シーンの意味、裏側がいちいち奥行きを感じます。
例えばペンキ。
家はペンキを塗り替えてましたね。
もっと言えば、ペンキが付着して離れない。まだ、乾いてはいないのです。
これは過去の塗り替えであり、修復を自ら断ち切っているが、気持ちはまだ残っているメタファーのように感じます。
まだ繋がります。新しい男は目がかぶれています。理由は語られませんが、男が塗るペンキによってかぶれていたのです。
そもそも、この映画は理由や発端が一切わからない、語られません。
それをあえてしている。画面の画だけで勝負している。僕らに投げかけ、委ねられているのだろうと。
消えかけた電気。
電球の交換、2人で選び揺れるシャンデリア、穴を開け交換する新しい男。
これも同様です。
電球交換の後、この映画では違和感のようにしか感じない長い長いキッチンでの沈黙のシーンがあります。
新しい男と元旦那。
耐えきれなくなった男たちは、離れに向かう、電気を消しに行く。
その動線は2人の心情を語ってくれます。

そして、この映画で最も特徴的なのは、天候と登場人物の共通した行動です。
一つ。
いつも、作為的に雨が降っています。
雨は障害の象徴でありまとわりつきます。彼らの行く手をことごとく阻む。
それでも、雨は止むもの。
意味を持ったどんよりした空だったのだろうと思います。
二つ。
彼らは目的のためにアクションを起こしますが、必ず誰もが一度は引き返します。
あちらに向かって、こちらに戻る。
こちらに戻って、あちらに向かう。
全編通してこの演出を貫いています。
僕らの行動にそこまでの明確なものはない、迷いながらも進む。
そんなものを表現しているのではないでしょうか。
一つ一つに意味があるようで、画面が移ろうだけで面白い映画です。

最後の方でラジコンが飛ばないのもこれからを示唆しているかもしれません。
ラスト、涙を流したのは観客にしかわからないし、手を握ったのか、握っていたのかは分かりません。
毎回そうですが、理由も分からなければ、結末も分からないのです。
そしてエンドロール。
ここで始めて音楽が流れ僕らはホッとします。
映画だった、映画でよかったと。
でも本当の意味で解放はされていない。
観終わってからやっとこの映画が始まるような、地続きのようです。
苦しいけど、人生そんなもんだよ。
けど、人生そんなことないよ。
色々思わせてくれます。
こんなに情報はくれるのに、
欲しいものは何も教えてくれない。
少し憎いですが、彼のそのどこまでも徹底する力と才能に感服です。

子供は全て知っている演出。
子供らに監督が背負う社会的責任や環境を乗せているように見え、そもそも持ち合わせている感覚が違うステージなのかもしれない。

重ね重ねですが、
アスガー・ファルハディ監督作は、観客だけが物語の道筋を知っていて、主人公がその中で答えを探して行く。だがその結末は誰も知らない。
故のサスペンスだが、その過程が余りにも心情とリンクするため衝撃を受ける。
筋書きが有るようで無い人間ドラマ。
答えもまた有るようで無いリアルな人生のように。